本年度、開成中の入試出題文から。
小4・ハナエの愛読書『はせがわくんきらいや』。
いわく、公害病に苦しめられて弱く、動作が鈍く、すぐ泣く、扱いづらい「長谷川くん」を、「ぼく」は嫌いつつも、憎めず、時に手をさしのべるという。
それは、両親に障害があり、見かけが汚くのろく皆から疎まれ、そして、かつて小1のときに自分を頼ってきた面倒なさっちゃんを、避けながらも愛おしむハナエ自身の気持ちと重なる部分がある。 華恵(はなえ)『本を読むわたし』による
結構、深刻な問題を扱っています。
ハナエの気持ちをわかりやすく言えば、「弱者への共感」ということになるのでしょう。ただし、そこには「醜い者への嫌悪感」が同居していることを見逃せません。周囲の身近な人間関係に置き換えて考えてみましょう。もし、自分が、「あいつはダメなやつだ、でも憎めないね…」と信じていた友人から評価されたら、うんざりですよね。
“見下し、嫌悪し、それでも何となく憎めない”そのように他者を評価している者が深く自覚しているか否かに関わらず、客観的にみれば、それは「上から目線」の傲慢な感覚と言わざるをえないでしょう。恐らく、他者の苦しみに想いを致すとき、相手のありのままを受容したり、自分とは異なる風格の者を許容できる器量が前提にあることが、「人権意識」の透徹した姿なのでしょう。正論はそうです。しかし、少なくとも、本文で扱われるハナエの感情には、それがありません。
では、なぜ、こんな出題になったのでしょうか。意図やメッセージを、どこに見出せばよいのでしょうか。
一つには、「自分の思いに正直に向き合うことの大切さ」を伝えているのかもしれません。
~私達は、戦後、必死に走り続けてきた。石油危機で、一旦、高度成長が収束して、またバブル景気に沸く。その後の長期に亘る不況を経ても、個人は大きな社会のシステムの論理に糾合されてこそ生き延びることができる、という価値観の大きな転換を図るには至らなかった。そして、震災と原発事故が起きた。もう、そろそろ、個人の本音やありのままの肌感覚から、出発してもよいのではないか。その是非善悪については、衆議に諮ったり、文化・歴史的背景も踏まえた専門的検討に委ねたりして、後付けで検証していけばよい。巷間、「正しい」とされる論理や客観的評価、抽象的イメージから一度、解放されて、今、あなたが感じ心に落とした、ありのままの思いと向き合おう。そして、周囲の人に伝えてみよう。
社会に閉塞感が広がれば広がるほど、こんな声が聞こえてきても不思議ではないでしょうね。逆説的な表現でありながら、忘れかけていた大事なことに思いを致させてくれる本年の開成中の出題だったと思います。