本年度、雙葉中の入試出題文から。
学者のアラムハラドが、弟子達に教えたこと。人の本性は、歩行や発言等の一般特性以上に、正義を愛し道を求め善を行うことにある。教え子達よ、どうかこの理想を堅くおぼえて忘れるなかれ。人生に立ちはだかる困難に直面したとき、善を愛し、ほんとうの道を求め、実践する人間の使命を忘れずに進めば、必ず新しい道が開け、守られるにちがいない。
(宮澤賢治「学者アラムハラドの見た着物」による)
人は、社会の厳しい現実に直面する機会が増えるほど、妥協を覚え、訳知りになり、小才子になっていくものかもしれませんね。それは、渦巻く濁流に呑み込まれることなく、我が身や大切な人を荒波から守るために、致し方のない側面があるといえるでしょう。「大人」にってから、高らかに理想を語ることは容易ではありません。
しかし、否、だからこそ、人間として生きる上での使命を語ることの意義は色褪せないのではないでしょうか…。何が真実なのかを探求する求道心と正しいと信じる道を進む勇気…誰も反対する人はいないはずです。ただ、声高に掲げることが難しくなるんですね。
先日、書棚を整理していて、大学生の頃に読んだ岩波文庫版のプラトンやカントの著作を発見しました。初めてそれらに接したときの身震いするような記憶が蘇るとともに、以来、二十年近くが経過しても、そこに語られた思想の何百分の一も実行できていない自分の弱さにも直面しました。
「理想」とは、仮に実行できる部分がごくわずかであっても、語り続けること自体に意味があるのかもしれません。完全に忘れ去ったとき、人は本能のままに生きる獣性を剥き出しにした姿を露呈する…というべきでしょうか。それでは、せっかく人間に生まれた価値も薄れるにちがいありません。
声高に語るのが恥ずかしければ、人知れず胸中深くに刻みつけておればよいのではないでしょうか。そうすれば、せめて現実の泥沼に埋没することを防止できるような気がします。
今年の出題からも、慈愛や人間力を問う雙葉中ならではの問題提起を読みとることができました。偏差値等では決してはかることのできない、人間教育の府の矜持はここに厳然たり、と改めて感銘を深くするものです。