受験生にとって天王山とも言うべき夏が終わりました。去年に続いてコロナ感染拡大の中でしたが、十分成果は出せたでしょうか。
順調にこなせた人もそうでない人も、ここで気持ちを新たにして残り期間を有意義に過ごしてほしいものです。
小6の受験生は9月からPA(志望校別講座)も始まり、学校別合判テストや過去問演習で実践力を養う時期となりました。これからは1回ごとのテスト・演習は入試本番のつもりで取り組む必要があります。「真剣さ」は、日頃から意識せずに身につくものではありません。
皆さんは国語の問題に接するとき、どういう点に注意して問題に向き合っていますか?
「時間配分を意識している」
「解きやすそうな問題から解くようにしている」
「ケアレスミスのないように、必ず答案を読み直している」
等々、「意識して」問題に取り組むことは大変重要です。特に、今までの自分の解き方を振り返って「よくない点」を自分なりに見つけ、それを改善していく意識を持つだけで結果もかなり変わってくるでしょう。
ところで、問題を作る側の立場から、採点しながら毎年思うことがあります。
「どうして設問をよく読まずに解こうとするのだろう…?」
読解問題であれば、本文をしっかり読まなければ問題の解きようがありません。ですから、大半の受験生は本文をきちんと読もうとしているはずです。でも、「問一・問二…」という設問についてはどうでしょう?
読解問題に使われる文章には作者がいます。でも、受験生がテストで答えるのはその作者に対してではなく、設問を作った人、つまり作問者に答えるのです。「出題者の意図」を考えながら説くことが重要になります。
作問者が問題を作る際、できるだけ受験生が答えやすくなるように設問中に「答え方」の指示をすることが少なくありません。しかし、そうした設問の指示を全く無視した答案が毎年見られます。せっかく「ヒント」が書かれているのに、そのヒントを無視したような答案です。力が足りず解けなかったのならあきらめるしかありませんが、わかっていながら指示を見落としたために得点できない、ではもったいないですよね。
設問中の「答え方」についての指示は必ずチェックし、出題者の意図(何を答えさせたいのか…?)を考える意識を持ちましょう。
数年前、某新聞に開成中と灘中の校長先生と国語科の先生方の座談会の記事が掲載されました。その中で文学的文章の読解について面白い意見があったのでご紹介します。
明らかに相手にプロポーズしている場面なのに、そのことを理解できない生徒が開成中に多い…と、開成中の先生がおっしゃっていました。つまり、行動や言動から人物の心情を理解できない生徒が多い、ということです。もちろん、小中学生では自分の経験としてプロポーズをしたことなどあるはずもありません。(幼稚園児が「〇○ちゃんをお嫁さんにする!」などと言うのとは違いますね。)ですから、経験則から考えるのではなく、「どんな場面で」(何があった?)「何をして・言って」いるのか(何を伝えたい?)、を想像しなくてはなりません。
昔、次のような問題がありました。皆さんはどのように想像できますか?
プラネタリウムで、ちょっと気になる女の子が帽子を椅子に置いたまま帰ろうとしていた。それに気づいた少年が帽子を持って追いかけると、女の子も気づいて「ありがとう」と言って手を差し出された。少年は一瞬「どきっ」としたが、「どういたしまして」と言い握手したとき、少年は手がしびれたような気がした。
このとき「しびれたような気がした」のはなぜですか?という問題です。
筑駒・開成に合格した算数の天才と呼ばれていたある生徒は、真顔で次のように言いました。
「この少年は、手をねじって握手したのかな…?」
おそらく彼には「しびれたような」の「ような」が抜けてしまったために「しびれた」と解釈したのでしょう。普通に握手してしびれるはずはない。しびれるような握手って…?
ちなみに彼は筑駒在学中の6年間のうち、5回数学オリンピックの日本代表として出場し、金メダルを獲得して国から表彰までされた生徒です。ただ、小学生の頃は国語をとても苦手にしていました。では、何が問題だったのでしょうか?
「文中に根拠を求める」という解き方が出来なかったことです。どんな入試問題でも、問題文の最初に「次の文章をよく読んで、後の問いに答えなさい」と指示されていますね。作問者は、問題と解答を作成するに当たり、必ず本文中の根拠(手がかり)をもとにしています。もし、想像力だけで答えるような問題を作ってしまったら、どんな解答でも正解にしなくてはなりません。
ここでも、出題者の意図を考えることが重要です。「何について」「何を根拠に」「どのように答えさせたい」のか…?
来年の入試までまだ時間はあります。今まで特に意識せず問題を解いてきた人は、是非こうした意識をもって取り組むようにしてください。合格発表を笑顔で迎えるために。