【奈良時代 ⇒ 平安時代】
平城京から平安京へ都が遷都した理由の一つは塾でも学習しています。正確に言うと『平城京』⇒『長岡京』⇒『平安京』の順番です。
平城京から都を移した理由はいくつか考えられます。
① 奈良の仏教勢力を排除するため。
② 皇統が天武天皇の系から天智天皇の系に変わったため。
③ 暗殺事件などによる呪いから脱するため。 など
中学受験生がテキストや参考書で学習したのは①だと思います。実際にはこれだけで入試問題は何とかなると思います。ただ、こんな質問を受けたことがあります。
「仏教勢力が政治に口を出したのであれば、僧侶を追放すればいいのであって、なぜ都を変える必要があったのか」
こう考えるお子さまに対しては②を説明しています。壬申の乱によって即位した天武天皇の系統が、聖武天皇の娘である孝謙天皇(称徳天皇)で途切れてしまいます。そこで天智天皇の系統(桓武天皇等)が皇位に就くわけです。そのため祖先と争った天武天皇系統の都を捨て、新たな都を建設したという説です。もちろん、当時の仏教勢力が朝廷の及ばないほど肥大化していたこともあるでしょうし、仏教をないがしろにすることによる怨念を気にしたのかもしれません。
平安京の前に長岡京が入る理由は学習していると思います。そもそも新しい都として建設した長岡京ですが、造営長官藤原種継の暗殺事件が発生したことから新しく平安京を建設するわけです。
【平安時代 ⇒ 鎌倉時代】
つなぎめは、平氏の世から平氏滅亡、源頼朝が征夷大将軍に任命されるまでです。
我々は源頼朝が平氏を滅ぼして武家政治を始めるという結果を知っています。その認識でこのつなぎめを学習すると流れが見えてきません。
当時、頼朝は罪人として流罪されていたのです。その罪人が天下を動かしている平氏を打倒するため挙兵します。罪人ではありますが源氏の棟梁である頼朝に協力する武士も出てきます。これは冷静に考えれば異常なことです。義経の3戦3勝という天才的な戦略も奇跡に近いのです。このようなことが積み重なって鎌倉時代に入っていくことを理解させてください。
鎌倉時代は、都が変わったわけではなく政治の中心が変わっただけです。
源頼朝が、鎌倉に幕府をつくった理由は入試でも問われますし、皆さんご存じでしょう。
① 鎌倉は源氏に関係の深い土地であった。
② 京都だと平氏のように政治が貴族化するおそれがあった。
③ 鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれ守りやすい。
源頼朝は、関東の武士として自分たちの土地を朝廷の無理な支配から守るために独立を画策しました。ですから都に幕府を開くことは朝廷からの独立という点では矛盾することになります。江戸幕府を開いた徳川家康も朝廷から離れた江戸を選んでいます。
では、なぜ足利尊氏は幕府を京都に開いたのか…。次回に続けます。