武蔵中の出題から。
母を亡くした中学二年生の少年。父・妹とともに、九州の母の実家に転居。
大事な家族を失って、妹ともども、茫然自失。
かつて、読書は好きだった。でも、母も好きだった本は、母を連想させるので、手に取れない。
そんなとき、同じ歳くらいの見知らぬ少女から、たまたま本屋である本をすすめられ、読書の楽しみを思い出す。また、なんとなくなつかしい感じのする少女との出会いに、胸をときめかせる。
さらに、少女から教えられた本を、転校先のクラスのリーダー格の少年にすすめたことをきっかけに、クラスメンバーとの距離も縮まったようだ。球技大会のバレーでしくじっても、皆、励まし、支え、守ってくれるではないか!
ようやく、少しずつ、前を向いて歩けるようになってきたかな…
(宮下奈都の文章より)
私たちは、さまざまな「きっかけ」や「縁」「転機」に支えられて生きていますね。この少年も、まず、母の死を前に、悲痛な思いに沈みました。しかし、不思議な少女との邂逅や本との遭遇、また、転校先のクラスメイトとの出会いによって多くの可能性を得、失望と葛藤の淵から少しずつ立ちあがれたようです。
他方、もし、この少年の絶望が、助縁となった少女や本・クラスメイト等への興味を押さえ込むほどに大きかった場合、少年は、閉じた世界への沈溺を余儀なくされたまま、社会への窓を閉ざさねばならないのでしょうか?また、いかなる「縁」に行き当たるかは、偶然の産物と片付けてよいでしょうか?
ここには、“身辺の「縁」を、自身の運命を前向きに切り拓く方向に転換すべきは、個人の意志力一つである”…といった単純な精神論・自己責任論では割り切れない、何かがあるようです。答えは、容易ではありません。
しかし、まず、真正面から向き合うことはできる。自身を取り巻く現実と四つに組み、もがき続けることはできる。その果てに、もしかしたら、希望の燭光が見えてくるかもしれない。…作中の少年も、その果てに元気になれたのかもしれない。こんな、凡人なみの知恵の大切さに気づかせてくれた、本年度の武蔵中の出題でした。