~桜蔭中の出題から~
亡くなった「ばあば」が、ちいさい人になってやってきた。少女は、「とつぜん、いなくなって…」と、ばあばを問い詰める。ばあばは、「かえちゃん(少女)だって、とつぜん、やってきたよお」と応じる。少女「へえ、とつぜん?」。祖母は、きっと、少女の成長と幸せを願っているに違いない。 (大久保雨咲「五月の庭で」)
幻想的な場面設定のもとで、物語が展開します。亡くなった祖母が、花の中に身を隠せるほど小さくなって、少女のもとに現れたというのです。彼女にとって、突然、訪れた祖母の死は、大きな悲しみをもたらしました。だから、今、何事もなかったかのように、ちいさい人になって花房に腰掛け、遊び戯れる祖母の姿を見て、愛する肉親の死に対する真摯な悲嘆をあざ笑われているように感じ、いらだちを募らせたのかもしれません。そして、少女は、なぜ突然いなくなったのかと、祖母を問い詰めます。しかし、それに対し、祖母は、“かえちゃんも前日までいなかったのに、次の日には突然いたよ“と、当然の道理でかわします。少女は、何か新しい気づきがあったようで、驚き、感嘆してしまいました。
私たちにとって、出生と死去は、突発的かつ偶発的に起こりうる現象であるという一面は、誰も否定できませんね。誰しもが、「とつぜん」この世に出現し、そして、「とつぜん」の退出を余儀なくされます。では、その中で私たちは、波間に漂う木の葉のごとく、ただ、運命の偶然性に身を委ねてさまよう以外にないのでしょうか?
~女子学院中の出題から~
震災の悲惨、兄弟の生まれ順による差別・不遇…しかし、「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」(幸田露伴)。自分にはどうしようもないめぐりあわせも、希望と向上心をもって開拓すれば、きっと立派に改善できる! (青木奈緒「幸田家のことば」)
「運命を踏んで立つ力」とは、なんと力強く、希望に満ちあふれた言葉でしょうか。私たちは、自分の力ではすぐに改善することの難しい、多くの理不尽ともいうべき先天的条件に囲まれているといわざるをえません。時には、その自身の宿命を呪い、うめき、一歩も前に進めないこともあります。しかし、人間であるならば、勇気をもって頭を上げ、運命のどん底を踏みしめて、自分の意志と力で立ち上がり、未来を変える自由は許されているに違いないし、その権利は、誰人も奪うことはできない…というべきではないでしょうか?
気まぐれな運命に挑む力があるとするなら、自身の胸中に…大事なことに気づかせてくれた、本年の桜蔭中・女子学院中の出題でした。