日本で本格的に西欧近代の数学が教えられ始めたのは意外と新しく、1877年(明治10年)に洋行帰りの菊地大麓(だいろく)が東京大学理学部教授となって物理学と数学を講じ始めたのが一つの目安のようです。この後、数学科が独立するのは4年後の1881年です。
では、それまで日本には数学がなかったのかというと、そうではありません。神社の境内などで算額を見かけることがありますが、和算がありました。江戸時代の初期、人口の増加によって水不足が問題となった時、多摩川の水を(青梅線の)羽村から四谷の大木戸まで引いてくる玉川上水の工事が行われましたが、羽村~大木戸間約43KMの標高差は100M位しかなく、その成功は、当時の日本の土木技術の優秀さのみならず和算の水準の高さを示しているのではないかと言われています。
ところで、菊地大麓についで東大で数学を教え始めたのは1887年に留学から帰朝した藤澤利喜太郎で、その教えを受けたのが『類体論』で世界的に有名な高木貞治です。高木は1901年にドイツ留学から戻って教え始めるのですが、『類体論』の主論文を書き上げたのは1920年のことです。
1877年から数えてわずか43年で、世界最高水準の成果を達成できたのは、高木貞治の天才によるところが大とはいえ、江戸時代を通じて脈々と育まれてきた和算の伝統があったからかもしれません。