「多勢に無勢」という言葉を知っていますか?相手の人数はとても多いのに比べ、自分たちはあまりにも少数なため、戦う前から勝ち目がない、というような意味です。戦国時代の合戦でも、○○軍の軍勢△△名に対し、××軍の軍勢は●●名…などとも言いますね。
そもそも、今の日本は民主主義国家であり、基本的には多数決によって可否の判断がされます。したがって、どんなに自分の意見が正しいと思っていても賛同者が少なければその考え方は通らないことが多いでしょう。
ただ、最近は少数意見に耳を傾けるという風潮も出てきました。民主主義の象徴とも言えるアメリカ合衆国の国務省は、次のように定義づけています。
一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。
その上で、「多数決の原理は政府を組織し、公共の課題に対する決断を下すための手段であり、抑圧のためではない」としています。
2018年度の筑波大学附属駒場中学の国語の問題で、ろうあ者(聴覚障害者)と医者のやり取りの問題がありました。
医師は「多数の人間は耳が聞こえるから手話など使う必要もない。耳が聞こえず手話を使う生活をするあなた方は不幸だ。そんなあなた方に幸せになってほしいから、人工内耳をを埋める手術を受けてほしい」と言います。
ここでの大きな問題点は、手話への誤解、さらには手話を使うろうあ者を欠陥品のようにとらえる見方です。音声を話すことが人間として幸せにつながるはずだ、手話を話す生き方などなるべくない方がいいと信じて疑わない医師の態度を、筆者は「幸せの押し付け」と表現しています。多数=正、小数=悪、という考え方には誤りがあるということです。
2022年度の武蔵中学の国語の問題では、全盲になった女性の話が出題されました。網膜色素変性症の発症で高校1年の頃から急激に目が見えにくくなり、19歳で完全に失明したそうです。そんな彼女が視覚を使わずにすらすらとメモを取る。しかも、強調するためにさっき書いたところにアンダーラインまで引けるそうです。つまり、目ではなく、「書く」という手の運動で紙を見ているのです。実際に目は見えなくなっていても、見えていた時と同じように。
ともすると、人は他人の意見に流されやすいものです。話し合いをしても、結局は多数=善・少数=悪、のような雰囲気になってしまう。「みんながそう言うなら…」「本当は私はこうしたかったのに…」等々。
もちろん、天邪鬼になって何でもかんでも反対するというのは論外ですが、本当に自分の思っていることが他の多くの人と異なっているからといって投げ出してしまっては、いつまでたっても自分の思いは届きませんね。
人の意見はよく聞く。自分の考えとどこに違いがあるのか。どこは共通点なのか。どうすればよりよい考えに行きつくのか。
説明文で海外の文化と日本の文化を対比したような文章もよく出題されますが、結局言いたいことは「お互いの違いを認めよう」=「相手の考えも尊重しつつ、自分の意見と擦り合わせていこう」…といったことなのです。そのような前提を知った上で文章に当たっていけば、自ずと出題者の意図も明確になってきます。