女子学院中の出題から。
何でも知識や既成概念のフィルターで世の中を見る大人と違い、子どもの世界は、いつも、驚きや発見であふれている。どんなものでも、はじめてみつける感動が大きい。だから、たとえば、音楽や絵画においても、上手・下手をこえて、子どもにとって感じられる、ありのままの真実の世界を、そのまま表現することになる。
(阿(おか)純章『「迷子」のすすめ』より)
私たちは、成長するにしたがって、経験・知識を増やし、その集積としての認識の枠組みを通して世界を理解しますね。
留意すべきは、この既存知自体に善悪は存在せず、その活用法如何によって価値・反価値が生じうるということでしょう。大人になるということは、知識の活用によって社会貢献しうる可能性とともに、その悪用による犯罪への萌芽をも併せ持つことになります。
他方、子ども、特に幼年期の児童にあっては、毎日、時々刻々が、新世界との邂逅と感動の連続であり、そこに世事のしがらみや夾雑物が入り込む余地はなさそうです。彼らの表現芸は、彼らにとっての純粋な発見を率直に伝えているがゆえに、見る者の胸を打つといえるでしょう。
煌々と照らすお日様やお月様の光を身に浴びたときの感興に、大草原に身を委ねたときの爽快感に、大海原を行くときの心広々とした気概に…国・民族・言語・宗教などによる差異は、ありましょうか?まして、複雑な大人の先入観念などが邪魔することはありましょうか?
純粋無垢な精神で、手を取り合う子どもこそ、真の「国際人」とは言えないでしょうか?
一方、複数の言語に精通し、複雑な国際政治を縦横に論じる訳知りの大人たちには、戦争を止める術がない。皮肉といえないでしょうか?
繁多な日常の中で、ふと立ち止まり、広大な世界を無心に観じてみませんか?私たちが立ち返るべき原点に気づかせてくれた、本年の女子学院中の出題でした。