今回からシリーズで、御三家6校の国語科出題の底流に脈打つ哲学を、一緒に考えていきたいと思います。ここでは、個々の出題に対する解法ではなく、あくまでも出典本文の思想に肉薄することを目的とさせていただきます。
2010年。
校長や次席訓導(=教頭)は、教師と生徒の筋目を必要以上に強調する。しかし、「先生も人間、僕も人間」のはずだから、大人たちの物言いには、大いに疑問を感じる。
(開成中・太宰治「思い出」)
仲間の牛たちは、自分の運命に気づかぬまま、屠殺場へ赴く。しかし、おれは、敢えて自由を求め、柵を破って脱出した。そして、皆から不自然な喝采を受ける、数奇な運命に入った。その道は、最後まで貫徹するしかあるまい。
(麻布中・薄井ゆうじ「木登り牛」)
親は、同級生が「いい子だから死んだ」と言う。教師は、「優しすぎるぼくが、彼の死に衝撃を受けて成績を落とした」と言う。しかし、大人の理由付けは、あまりにも根拠薄弱だ。死は偶然の産物だと気づけば、すっきりできるんだ。
(武蔵中・有吉玉青の文章より)
※大人たちや既存の枠組みに対する、強烈なアンチテーゼが語られています。それは、単なる、情緒的な反抗ではないでしょう。課せられたものに対して、悩み、葛藤し、さらに深く自我を省みた末に到達した、実存的な気づきだと思われます。その内容は、「平等」(開成)、「自由」(麻布)、「偶然性」(武蔵)。いかにも、各校のポリシーを表象しているといえるのではないでしょうか。
2011年。
過疎化社会においても、少ない人口で生き延びる知恵を発揮できるはず。工夫次第で、進歩・変化とはまた違った次元の充足や悦楽が、見つかるにちがいない。
(開成中・坪内稔典「大事に小事」)
常用漢字の用法すらあやしい私たち。数千年前の中国人が、きわめて精緻に人間観察し、描写し、漢字を創出した姿勢に学ぶところがあるはずだ。
(武蔵中・なだいなだ「わが輩は犬のごときものである」)
進歩主義による大量生産・大量消費型産業から脱却して、精神の豊かさや「ゆっくり歩く価値」をみつけよう。
(桜蔭・石田秀輝、古川柳蔵「キミが大人になる頃に。」)
効率性重視のテクノロジーによる「技術」の背後に、自然の豊かさを皆で分かち合う「仕事」の価値を見出そう。
(女子学院・宇根豊「農は過去と未来をつなぐ 田んぼから考えたこと」)
※「連日のように追い立てられる、忙しい社会生活。求めていたのは、一体、何だったのだろう?馬車馬のように”進歩”を追求して、つかんだものは、物?お金?それは、そんなに大事なものだったのか? 少し立ち止まって、ゆっくり心の豊かさを求めてみてもよいのではないだろうか。」こんなメッセージが聞こえてきます。
いかがでしたか。2010年の出題からは、「自我への目覚め」というテーマを読み取ることができます。2011年の問題文からは、転変する煩瑣な現代文明への反省により、古典的な心の価値を復権させるべきだと訴える思想を汲み取れます。
敢えて両年度に連続性を探ると、「己を深く省みた末、古今東西、誰しも到達したであろう普遍的な気づきに至る」という思潮になるのかもしれません。
次回以降、本年度の出題に注視していきたいと思います。