本年度、武蔵中の入試出題文から。
異文化の国に対し、”外国”として外から眺め、観察者になっているうちは、不自然な認識や誤解・違和感しか湧かない。自国の文化基準や差異へのこだわりを捨て、彼の地の中に融け込み、生業生活者の感性に同じれば、その文化の根元にある豊穣な価値を堪能でき、より多角的な視点が得られるだろう。 (堀田善衞の文より)
本文前半では、むしろ、ときに、自分の定住の地と生業を離れて、たとえば旅先で出会う現地の人々が懸命に働き暮らすありさまを滑稽に感じられるほど無責任な観察眼で眺めることで、自身の生活をより客観的に見る新たな視点が得られる可能性についても触れています。つまり、対象に完全に同ぜず、第三者的立場を活かす大切さを提唱しているわけです。
これは確かに、一面の真実でしょう。たとえば、病気を治療するときに、思い入れの深い家族の慈愛だけを最優先することで、患者本人にとっては苦役ともいうべき過大な療法が選択される危険性もありえます。そこに、ドクターの冷静な専門的視座からのアドバイスの必要性が生じるのかもしれません。また、かわいい我が子の子育てにおいて、親の無条件の愛情だけでなく、地域社会の人々や学校等の指導者から社会性を要求されてこそ、人は健全な成長を遂げるのではないでしょうか。手元の課題に没入するあまり、自分自身すら見失いそうになったときは、ちょっと下がって全体を眺める心の余裕が大事なのでしょうね。
反面、本当の意味での他者理解が必要な局面においては、外からきて評論するような態度は禁物でしょう。大事な人の生命に危険が差し迫るようなときや、共感こそがその人にとって唯一の支えになるような場面では、自分のちっぽけなプライドやこだわりを一時的にでも差し置き、後先考えずに手をさしのべるべきなのかもしれません。信頼や絆というものの有難味は、そうした人間らしい振る舞いができる人に後からついてくるというべきでしょうか。
私たちは、ときに眼前の問題に全面的に専心し、また、他方
で冷静な観察眼を働かせつつ、長い人生行路を経てゆくも
のなのでしょうか。両者を、臨機応変に使い分けられる人を
賢人というのでしょうか。両者の理想的な按分比率はどのく
らいなのでしょうか・・・
答えは、自分でみつけていくしかないことだけは確かなので
しょうね。