本年度、筑波大学附属駒場中の入試出題文から。
力太郎の手は実際より大きく描くことで、剛力さを強調できる。また、女性の手足はより小さく描くことで、優しさの真実みが出る。「絵のリアリズム」とは、普遍的な特徴を、より誇張して表現することだ。そこに、写実を超えた対象の本質・核心が表現され、説得力と納得感が高まる。 (赤羽末吉「私の絵本ろん」による)
この視点は、純粋な芸術作品や、伝えるべきテーマ・方向性が特定される領域の著作物においては、大いに推奨されてよいと思います。
しかし、公平中立性を旨とし、事実をあるがままに伝えることが使命とされる報道分野においては、こうしたデフォルメはご勘弁願いたいところです。なぜなら、現象界の諸相に対する報道機関による取捨選択の段階から、既に主観性が入り込んでいるにもかかわわらず、それに伝え手の恣意的な味付けまで付加されては、何が本当のことなのか、全くわからなくなってしまうからです。どこまでが比喩で、どこからが事実なのか、その線引きのラインさえ類推することが困難な記事……いわゆる衆愚化に結びつくかもしれない「ゴシップ」の類の紛らわしさなどは、その危険性を孕んでいるといえるのではないでしょうか。
今後とも思わぬところで足を掬われぬよう、本当のことを見極められる体力・眼識を保持するべく、アンテナをはっていたいと思うものです。
他方、今年の出題で強調された論点は、客観性の担保という次元とはまた異なるところを強調しているように思われます。
つまり、「事実」の積み重ねの延長線上に「真実」を模索しがちな人間に対する、一つの角度からのアンチテーゼともいえないでしょうか。
これは、”伝え方”と”納得感”の問題ともいえそうです。たとえば、『正論ばかりでつまらない先生』より、『あやしさは残ってもおもしろい先生』の残像が、幾つになっても消えないことからも、私たち人間は、きっと、事象の奥に潜むであろう「本質」を、単純化して表象したりされたりすることを心の深層で求めている、と言えるのかもしれませんね。
きれいにできた正しい理論、外から眺めた客観的評価、抽象的なイメージ…に、いかほどの力があるか!?まず、今、あなたが感じ心に落とした、ありのままの思いと向き合おう。そこから出発して、感じるままに伝えてみても全く構わない。むしろ、意外な真実がみつかることもあるだろう。
……と、こんな声が聞こえてきそうです。
当然、危険はつきまとうでしょうね。時に、客観性をもって矯正すべきことは、言うまでもないでしょう。人間性の一端について、深く考えさせられる今年の筑駒出題でした。