桜蔭中の出題から。
登山は、一定のルールに縛られるスポーツではなく、高度な判断と成り行きの連動作業による本質的に自由な「旅」のようだ。
冒険の本質は、自然との関係性を構築し、自然の中で生きることで自己存在確認する魅力にある。
一方、極地探検においてGPSを使うと、位置情報を便利かつ正確に知ることができるが、自然とじかにぶつかり、身体的五感を通じて、その地の真の姿をつかむ醍醐味は失われてしまう。
(角幡唯介『エベレストには登らない』による)
筆者は、自身の自由意志に全幅の信頼を置いているようです。
既存のありように身を委ね、安定と安心に浸るよりは、臨場感あふれる冒険に敢えて身を投げ、心地よい緊張を楽しむことに生きがいを見出す。それこそ、探検家としての真骨頂なのでしょう。
私たちは、古今東西の歴史的経験や科学的発見を通し、幾多の定評ある座標軸を獲得してきました。少なくとも、初等中等教育段階においては、それらの習得が大目的になるといってよいでしょう。
しかし、人間は、認識・判断の大きな枠組みを会得し、そこに多くの情報を加えるにとどまらず、それらを活用して、自分にとっての幸福感や価値を創り上げようとする営為に進みます。
その過程において、わが身をさらす環境が過酷であればあるほど、理想と現実の違いに葛藤したり、思うに任せぬ人間関係に苦渋したり……と、目的実現を阻む壁に直面して呻吟する機会は増えるに違いありません。
しかし、筆者は、そこにこそ「自己存在確認」の「魅力」があるという。
程度の差こそあれ、人は誰しも、この意味での「冒険」と無縁ではいられませんね。“何が出るかわからない”という緊迫感に、どこまで喜びを見出し得るか…結局、心を強く持つしかないのかもしれません。困難への挑戦に価値を見出す強靭な意志力…成否を決する鍵に気づかせてくれた、桜蔭中の出題でした。