【2014 武蔵中の出題】
“新美南吉の文による”
~日暮れ、遠出から帰れない寂しさ。焦燥感。一大事にあっては、「うそつき」の太郎左衛門も親戚を紹介するなどして、皆を助けてくれた。極限状態で帰着する人間本性の同一性を知り、安心する久助君。
傍目に”変なヤツ”と思える者も、存亡の危機に直面すると、皆と協力しあうようになる。危機感が個体間の絆を強めるのは、種を問わず、生物の本能的な特徴といえるのかもしれません。
古今東西の人類史を学ぶと、他者と共通の土壌を見いだして手を携える場面より、人種・民族・宗教・言語・文化・社会的階級…等々の差異にとらわれ、対立・分断の悲劇の流転に沈んでいた局面のほうがはるかに多かったことがわかります。
憎しみ合うより、心の壁を乗り越えて平和を実現したほうがはるかに幸せになれることは、誰しもが理解しています。しかし、この理想は、口で語るほど簡単ではありませんね。
身近なところに目を向けてみればわかります。人の個性は、十人十色。自分と全く同じ生い立ちで、思考も感性も同化できる人など、滅多にいるはずがない。そんなことは、よくわかっている。しかし、なんとなく許せない「あの人」の「あの態度」「あの言葉」。憤懣が鬱積して、ちょっとしたきっかけで爆発してしまい、お互いに傷つけあったことを深く悔いた…。こんな経験、誰しも一つや二つ、ありますよね。
まして、そこに国家や民族など、より大きな社会集団の政治力が絡んだりすれば、人類の存続すら危うくなる。
人間に本質的な「差異へのとらわれ」の感情は、理性の歯止めを突き崩してしまうのでしょうか。その一面は、決して否定できないでしょう。結果、不幸が訪れる。これは、人類の宿命というべきでしょうか?
だからこそ、少しでも学校・会社・地域…の隣人と、共通項を見いだす方途を考えられないものでしょうか? その人は私たちにとって、きっと少なからぬ縁のある、かけがえのない方であるにちがいない。ならば、ちょっとした勇気をもって、挨拶や声かけからはじめてみませんか!?
見えない勇気が、私を変える。
私が、いつもとちがう言葉を語る。
一言の思いやりが、猜疑の壁を氷解させる。
心の絆は、人を結ぶ。
むすびつきが、幸せを呼ぶ。