本年度、桜蔭中の入試出題文から。
・生活が貧しければ、家の手伝いでもするのが筋。しかし、往時の少年達は昆虫や植物の採集という、実益を顧みぬことに熱中した。こんな純粋な探求心も、成長過程には必要だ。
(中島義道「孤独な少年の部屋」より)
・何の変哲もないありふれたひまわりや足形。そこには何も感じぬ。しかし、自分が盗んだひまわりのスクラップや、墨でとった自身の足形であれば、少なからぬ興奮を覚える。
(長薗安浩「あたらしい図鑑」より)
人間とは不思議なもの。自分と深い関わりのあることや興味・関心の赴くことなら、それが社会的にいかに評価されようとも、まっしぐらに突進していくことができる。逆に、どんなに「正しい」とされることでも、自身と直接の関わりが薄ければ、そこに価値を見出せない。
この点は、特に後輩を持つようになったり、何らかの世話係を任されたときに、心の隅に留めておく必要があるかもしれませんね。
“人は、あくまでも自身の関心事に正直に動く動物だ”、”等身大の相手を理解するためには、彼の行動原理の源ともいうべき動機に注視する必要がある”
のかもしれません。すると確かに、正論を前面に振りかざした教説や政治力などで、いつまでも人を動かせるはずがないことに気づくわけです。面倒見の立場に立ったら、とかく、傾聴をもって、相手が一番やりたいと思っていることを聞き出してあげたいものです。下手にフォローの手を差し伸べるより、可能な限り、やりたいことをやりやすいように条件を整える裏方役に徹したほうが、断然よい。自分も相手も楽しい。何より、お互いの可能性は伸びるし、成長も早い。
また、自身が社会から一旦、身を引いたときに、誰にも煩わされずに打ち込めるライフワークともいうべきものがみつかっていれば幸せでしょうね。少年時代の純粋な好奇心や興奮、わくわく感を味わうことで、人生に潤いと彩りが与えられるにちがいありません。定年退職後といわず、休日や退勤後のひと時を使って、何かを探してみたいものです。
「”正論”より”実感”」。
大事にしたい人生観の一つです。