出題形式は昨年とほぼ同様(図版なし)ですが、もともと高い難易度はさらに上昇し、この学校の出題意図、求めている子供の能力の傾向が例年にも増して如実に提示される出題内容になっています。詳細は下記に譲りますが、一言でいえば、「想定外」に対応する能力ということです。用意していた知識も道具も考え方も不足している、しかし、問題(解決しなければならない課題)は眼前にあり、解くための定式は少ない。有り合わせでも、間に合わせでもしかたがない、とにかく、有効な対応を見きわめ、すばやく組み立てて、答えきらなければならない、その能力が求められているのです。本校過去出題の図版使用、図表表示、複数文章の並置などもすべてその流れに沿うもので、とりわけ、詩の記述出題がその典型になります。日常的な想定外対応トレーニングが必須といえます。幹細胞がないからとひたすら探し続けるのではなく、それは最初からなかったのであって、超狭いトンネルを通ったことによって生まれたのだ、と気づくことのできる能力です。
また、筑駒・開成などでは、過去に自我・自立をテーマにした出題がよくありましたが、今年は、筑駒のみならず、御三家全校で、他者との関係性が主題としてクローズアップされているように思われます。東日本大震災を経験した今、個人を超克した「縁起」「共助」の方向に人々の意識が向かっているということなのでしょうか。三の「終電車の風景」から、震災瓦礫処理問題を想起した受験生もいたかもしれません。
一 出典 山際寿一『ゴリラは語る』
頻出の京大霊長類研究系の「やわらかめ」の論説的随筆。文化人類学絡み内容はこの学校自体でもよく出題される。人間は「おせっかい焼き社会」になるか信頼・共感の薄い孤独集団の集合になるか、ともすれば極端な方向に流れやすい。そうならないためには「他者をもっと受け入れる懐の深さ」が必要だが、そのためにはどうすればよいか。ゴリラは一見冷たいくせに「懐が深いしなやかさ」を持っている。その能力は人間の自然である「自分の体」にそもそも備わっていたはずであるのに、今、失われかけている。ゴリラの生態の研究はそのミッシングリンクをつなぐことに役立つはずだ、という内容。けっこう複雑な意味素材である本文から、いくつかの「確かな意味のまとまり」を論理的に説き証す記述設問で、本校に典型的な出題パターンの1つ目。
問1 文中表現「諸刃の剣」の本文内容に沿った理由説明。主語は「共感は」であるが、その正確に意味するところが、「共感を求めることは」であることに気づくと説明が楽になる。
問2 文中表現「懐が深い」のここではの内容説明。つまりゴリラのことを具体的に説明しないといけない。
問3 文中表現「自分の体に聞いてみる」という比喩の本文内容に沿った説明記述。
問4 文中表現「人間を映し出す『鏡』」について問3同様の説明記述。『鏡』になるのが人間以外の動物であり、それが人間より自然度の高い存在であること、したがって、人間が失いかけているものを未だに確保している存在であることまで、解釈して読み取られていなければならない(本文中に直接書かれてはいない、それを読み取り、組み立て、説明する能力をこの学校は常に求めている)。
二 出典 鈴木志郎康「終電車の風景」
この学校独自で恒例の「やさしめの詩」を素材にした説明(平成26年は開成でも同様の出題!)。本年は詩句に漢字表記が増え、一見難解な詩に見えるが、内容の素朴さは昨年の「居直りリンゴ」と大差なし。読解、解釈、説明の原点は、まず飽くまでも「ことば」で表されたイメージ空間の具体的な把握、具体的な画像にまでイメージを読みとること。
汚れた新聞紙が一面に散乱する終電車の車内、汚いから婆さんがけとばす、それがこちらに来るので「私」もける。車内のみんながその「ゴミ」のサッカー、片づける気にもならないほど多い、見ているサッカーゲーム、ゴールはない。あるのは小さな利己主義の集積、責任の取りようもない程の素直さの重なる光景、「こんな眺めはいいなア」と「私」は思う。電車であれば、明朝、キレイになってまた走るから…それでいいけど、11才、12才の少年がこのイメージをどう説明するか、できるだけ単純素朴な素材から、1つの、或いはいくつかの「確かな意味のまとまり」を想像的に解き証す記述設問で、本校に典型的な出題パターンの2つ目。
問1 詩句「私もけった」…その時の「私」にとって「新聞紙」のもつ意味の説明記述。「ゴミ」でしょう?小さい利己、小さい悪意、小さい仕返し、その「ゴミ」にどんな説明ができるか。
問2 詩句「こんな眺めはいいなア」と「私」が思った理由の説明記述。大人が集まって一体何をしているのか、疲れているのに、深夜なのに…。少年に蓄積されたわずかな情報、お仕着せの概念、紋切りの価値判断、使ってもいいけど。
問3 詩句「あわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた」ときの「私」にとっての「新聞紙」の意味の説明記述。この時の「私」は「新聞紙」だと思っていない。現実にもどって…問題も消えた、終電車だし、もうすぐ家だし。電車だからそれでよかったけど、そうでなかったら…。
三 出典 江國香織「草之丞の話」
元和8年(1622年)5月7日、果たし合いで死んだ草之丞の幽霊が、時代劇の新米女優だった母親「れいこ」と結婚して生まれたのが「僕」、風太郎、13才の少年で、いきなり母親に告知され初対面の父との出会い、そして、家族ごっこ、父親は幽霊であっても昔の侍なので自信たっぷりである。草之丞は、クリスマスには母とワルツを踊り、プレゼントをもらい、やがて別れの日がくる。侍なのでさっぱりしたもので、母「れいこ」を一方的に風太郎に託し玄関を出ていってそれっきり。「おふくろ」は毎年、命日に、草之丞が死んだ八百屋の前で手を合わせている、というファンタジイ。
奇想天外か、それに近い物語の数少ない場面を素材にして、人物の気持ちやストーリィのポイントにおける事実関係を微妙なニュアンスも含めて説明させる記述設問で、本校に典型的な出題パターンの3つ目。
問1 初対面で緊張する草之丞と「僕」に「だまっちゃって、どうしたの」とふしぎそうに言う「おふくろ」を、「どこまで天真爛漫な人だろう」と「僕」が思う理由の説明。だって、普通の初対面じゃないだろ!
問2 草之丞と風呂に入って、いきなりドッキリ質問された時の「つっけんどん」な「僕」の気持ちの選択。
問3 文中表現「胸がしわっとした」から読み取れる「僕」の気持ちの説明記述。「しわっとした」は辞書にはない。この場面ではドッキリ質問のあと、ごくありきたりのホームドラマ的な父親発言をかぶせられている、幽霊に。
問4 幽霊と結婚して、子まで産むような「天真爛漫」な母親である。そのような「おふくろ」にどう対応したらよいのか。何とかしなければ…というレベルではない。だから考えないようにしていたにもかかわらず、それでも母親は母親だ…。
問3 そうして草之丞は行ってしまい、「おふくろ」は毎年、命日に手を合わせ続けている。「あのとき」だって半信半疑であったのに、そのすべての時間が消えた「今」、確かに認めざるを得ないものは「手」を合わせ続ける「生身」の母だけである。その「母」を「今」の「僕」がどう思っているのか、想像して説明する記述。「想像して」は嘘をついてよい、ということだが、荒唐無稽ではダメ。論理的で説得力をもたなければいけない。この出題パターンも御三家を中心にして頻出。
四 例によって、「全体をていねいに大きく一行で書く」漢字表記だが、ひらがなも書かねばならないし、楷書でキレイに、は言うまでもない。