本年度、雙葉中の入試問題から。
カランは貧しさに耐えかね、お金を盗んださもしい心根であった。が、叔母さまは、彼を追及せず、悠然と包み込む。
「そんなこと…カランはしませんよ」「なんておもしろい人なんでしょう」「みんな、わからないだけなのよ」
この深い信頼と愛にふれ、カランは前非を悔い、自ら罪を犯したことを告白するかのように皆の見えるところにお金を戻して、叔母さまへの感謝と誠意を表現しようとした。
(ルイーゼ・リンザ「波紋」による)
「叔母さま」のような深い慈愛を体現することは、なかなか難しいですね。窃盗という公然たる犯罪行為ならずとも、身近にいる人に対してほど欠点が目につき、業を煮やしてしまうものでしょう。
他者を「許す」ということが、どれほど忍耐と勇気を必要とする難事か。
目についた不足箇所を、片っ端から指摘し、場合によっては自分が代わりにやってしまうほうが、言う側にとっては、はるかに精神衛生上、救われそうです。そこをぐっとこらえて、自主的な改善を期待し、ひたすら「待つ」。相手を深く信じ尊敬する菩薩行ともいうべき精神を根底にしなければ、とうていなしえないのでないか…いやいや、これは大変です。
わが子に対する親の気持ち、生徒に対する教師の気持ち、弟子に対する師匠の気持ち…親・教師・師匠の理想観念が強烈であればあるほど、その価値基準に到達できない”わが子”に、歯痒さは募るばかりですね。
猛然と烈火のごとく叱りつけることも、時として必要かもしれません。本当に言うべき時に、急所を押さえて注意してあげなければ、一生、気づけぬまま過ぎてしまい、結果、かえって”わが子”を不幸にしてしまう。それは、親切ではなく、無慈悲です。
しかし、いつも小言ばかりでは、”わが子”はうんざりですよね。耳にタコを作り、「ああ、またか」と流されてしまう。まして、見守り育む側の者が、感情に任せて詰めた場合、”わが子”の胸中には、「叱られた、自分はダメだ」という負の情念だけが、強く刻まれてしまうやもしれません。
両者のバランスをとり、時宜にかなったアドバイスをすることが理想ですが、言葉で言うほど易くないことは、ご承知の通りです。
試行錯誤はあってもいい。ただ、すぐにできることは、根底に”わが子”への信頼と愛を貫くことではないでしょうか。それだけなら、きっとできる。すぐできる。一番大事な”わが子”への敬意。見えない心の中を、”わが子”はじっと感じ取っている。ここだけは、ごまかせないのではないかと思うものです。
多くの示唆に富む、今年の雙葉中の出題でした。